お客様へ
この日本一のカンパチを食べたいと、
鹿屋・大隅に多くの人々が訪れて、観光や地域活性化につなげたい!
この日本一のカンパチを食べたいと、鹿屋・大隅に多くの人々が訪れて、観光や地域活性化につなげたい!
という想いで、試行錯誤しながらやってきました。今もその熱い想いは消えることはありません。
地産地消への想い
「大隅半島」でしか食べられないものを
おなかいっぱい、こころいっぱい、食べて帰ってほしい。
「大隅半島」でしか食べられないものをおなかいっぱい、こころいっぱい、食べて帰ってほしい。
鹿屋市のブランド「かのやカンパチ」をはじめとした、日本一のものを使った寿司や料理。その旨いものをおなかいっぱい食べたい!と、陸の孤島と言われるこの地に日本中から、世界中からお客様がたくさん訪れて、美味しいものでおなかいっぱいになってもらう。鹿屋市で美味しいものを食べた、かのやばら園もきれいだった、今度、また一緒に行こうね!と言ってもらいたい。そんな幸せいっぱいのお客様に恵まれたおかげで、鹿屋市が元気いっぱいの町になる。それが私の夢です。
榮樂寿司は地産地消にこだわり、本物の寿司を食べることができる老舗寿司店です。昭和40年に大隅半島のほぼ中心に位置する鹿屋市(かのやし)に父が創業しました。
鹿屋市は「食材の宝庫」と称され、料理人が驚くほど年間を通して海の物、山の物の食材に恵まれた土地です。
たとえば、内之浦漁港に朝、水揚げされた魚がその日に手に入り、即、お客様にお出しできます。毎日、活きの良い美味しい魚を仕入れて下さる福島鮮魚さんと、田井村 水産さんには感謝しています。特に意識しなくても、上質な食材が手に入るため、その恵みに気付いている方は僅かではないでしょうか。 その凄さをもっとたくさんの方に知っていただくことが、私の夢の実現の第一歩ということで、鹿屋市のブランド魚「かのやカンパチ」を使った寿司をはじめ、地産地消にこだわった料理、そして地元の子供たちに寿司の握り方を教えたりしています。こういった活動を通じて、自分たちが住んでいる鹿屋市にはこんなにすごいものがあるんだと、子供たちにも誇りに思ってもらえればと思っています。この活動の原点は「日本の寿司文化や技術を次の世代につなげたい気持ち」です。それは榮樂寿司に修行で入った時、そして父が亡くなった時に強く思ったことでもあります。
寿司は同じシャリ、同じ素材を使っても握る人によって味が違います。不思議なものですが、やっぱり違うんです。ですから、父が亡くなった時、父の握る寿司に惚れ込んでいたお客様は、離れていきました。父が握る寿司以外はのどを通らない。そんな強い想いがあったのだと思います。父の味も好きだけど、あなたの作る味も大好きよと、通ってくれるお客様、そして新しく榮樂寿司を知ってくださったお客様。わたしも、自分の握る寿司に心底惚れ込んでくれるお客様に出会い、そして、お客様に心から満足してもらえる味、場所でおもてなしできるよう日々精進しております。
今までのものを継承していく、守っていく味もあります。そして、その味を次へつなげていくためには時代にあった変化が必要だと思います。私にとってそれは「地産地消」との出会いだったと思います。
なぜ寿司職人になったのか
父は一度も「店を継げ」と言った事はありません。
「好きなことをしなさい。自分がやりたいなら寿司を握りなさい」と言ってくれていました。
父は一度も「店を継げ」と言った事はありません。「好きなことをしなさい。自分がやりたいなら寿司を握りなさい」と言ってくれていました。
どんな仕事にも言えることですが、嫌いなら絶対に続かなかったと思います。「寿司なんて嫌いだ!」なんて気持ちで握った寿司をお客様にお出しするなんて失礼ですし、美味しくなかったでしょうし。父も寿司が好きで、何より自分の握る寿司に惚れ込んでくれたお客様との会話が好きだったから続けてこれたのだと思います。
父は徳之島の出身です。中学校を卒業し、仲間と一緒に集団就職といった時代を生きた人でした。和食を学び、東京・大阪・福岡・鹿児島・都城などで修業を積んだそうです。鹿児島では城山観光ホテルでも修行させていただいたそうです。その頑張りが実り、自分の店を持つことができたときの父の喜びは相当なものだったと思います。
父のさまざまな想いが詰まった店で、父が寿司を握る姿を見て育ちました。それが普通で、当たり前で。家と寿司屋が近かったのもありますが、どうしても父のそばにいたくて、よく遊びに行っていました。店が忙しい時にいくと、怒られていましたが・・・。ちょっと手があいた時に、握ってくれる寿司が旨かった。父が寿司屋をすることで、一緒にご飯を食べられない、お風呂も入れない、運動会といったイベントも一緒に楽しめないといった寂しい想いもしましたが、その想いをかき消すくらい、父が寿司を握る姿はカッコよかった!夜遅くまで泣き言ひとつ言わず頑張ってくれた父のおかげで、兄弟みんな安心して巣立つことができました。私は高校卒業後、自衛隊に入隊。父と離れたことで、父の仕事をより良く客観的に見ることができました。近ければわからなかった、寿司の奥深さ。日本古来の伝統を守り続ける姿。父が築き上げてきたものをここで終わらせたくない、これで育ててもらった、その素晴らしさを次につなげていきたい。そんな気持ちが強くなり、父の店で働くことを決意しました。その時、ちょうど二十歳でした。
修業時代
今と違って、「見て覚えろ」の時代。
自衛隊で鍛えられてきましたので、それなりの厳しさは乗り越えられる自信がありました。
「見て覚えろ」という時代ですから味を覚えるにも「塩を何g入れる」といったことも教えてはもらえません。残り物で味を見て、「この味にするにはどうすればいいのか?」と、実際に自分で作ってみて、味をみて。「あれ・・・何か足りないな?」その繰り返しでした。ですから他の職人さんが、そろそろ味を付けるな・・・というときに、じっと盗み見していました。じっとみていたら「仕事しろ!」と叱られるのもしょっちゅうでした。今、こんなことをしていたら、後継者なんて育たないと思いますが、職人さんたちの気持ちもよくわかります。職人さんたちも、その味を出すのに数十年という年月をかけ、手に職をつけてきたわけです。たとえば30年かかって得たものを「簡単に教えてくれ!すぐ教えてくれ!」なんて言われたらカチンとくるのではないでしょうか。やっぱり人間ですからね。もちろんそれは親子だからと言って変わるものではありません。自分も他の職人同様の扱いでした。息子だからといって特別扱いなんかしていたら、職人さんの心なんてすぐ離れていったでしょう。でも、助言はくれましたよ。親子だけにストレートに言ってくるので、喧嘩することもしばしばありましが・・・。こういった世界は料理だけではありませんし、もっと辛いところは多いと思います。
下働きとして入って、皿洗い、買い出し、掃除から始まり、徐々に野菜の下ごしらえや魚をさばいたりといった料理の下ごしらえ・・・。徐々に、徐々にできること、任せてもらえることが増えていきました。任せてもらえることが増えるだけ、認めてもらえているんだと嬉しくもありましたが、もちろんその間、お客様に寿司を握らせてもらえることはありません。ひまを見つけてはずっとさらしみたいな布などをシャリに見立てて寿司を握る感覚を養っていました。「いつか自分も父のように!」と、気付けば手を動かしていました。その当時は、お客様の顔や食べるスピードをみながら寿司を握ることができないもどかしさでいっぱいでした。
そんな下働きを7~8年。はじめて寿司を握ることを許されたのは9年目くらいの頃です。
父から「そろそろ握ってみるか」と言われた時は「やったーーーーー!」と心の中でガッツポーズをしていました。本当にうれしかったです。まぁ、握るといっても、メインの寿司は父やベテランの職人さんたちが担当です。自分は巻き物などの脇役のお寿司でしたが、それでもお客様に直接召し上がっていただけるお寿司には変わりありません。自分も主役の寿司を握るためにもっと頑張るぞ!と燃えていました。
この「見て覚えろ」という厳しい時代を乗り越えられた経験は、今でも頑張れる原動力であり、証であり、寿司職人としての誇りでもあります。父と職人さんたちが見て覚えてきた数十年という時間を経て培ったものを、私はその場で見ることができ、学び、吸収することができました。なんて贅沢な経験でしょうか。
目標を持つ
職人ですから「一生修行」ではありますが、刺激しあえる仲間と出会えたことで
目標を持つ大切さに気付くことができました。
目標を持つ大切さに気付くことができました。
30歳前の頃に寿司組合に青年部ができる話がでました。顔合わせをして15~16人ほどの仲間と出会いました。自分と同じ2代目として、同じ苦労している人たちです。会うたびに「寿司業界をどうやって盛り上げるか」「おまえは何してるの?」「自分はこんなことをしてるよ!」といった話を中心に盛り上がり、次第に腕を磨かなきゃいけない!という流れになりました。職人ですから「一生修行」ではありますが、刺激しあえる仲間と出会えたことで目標を持つ大切さに気付くことができました。仲間から話をききながら、年1回発行される寿司の業界紙で「すし技術コンクール」が開催されていることを知りました。
「すし技術コンクール」は4年に1回、開催される大会です。伝統あるすし技術の継承と、次世代への伝達。 そしてその時代にふさわしい技術の改善を図ることを目的としています。寿司の基礎技術の習得の大切さを再確認する絶好の機会でもあり、競技に参加する事が若い調理師の大きな目標となり、励みとなっている大会です。
偶然にも知った年に開催だったので、青年部を代表してコンクールへビデオカメラを持って見学に行きました。その時のピンと張りつめた空気・職人の顔・作り出される美しい寿司の数々は今でも忘れられません。それくらい衝撃をうけました。その大会での様子を仲間に伝え、コンクールに向け切磋琢磨の日々が始まりました。週1回みんなで勉強会をすることになりました。夜の営業時間が終わり、片づけをして23時に鹿屋市を出発してフェリーに乗って、鹿児島市の仲間と落ち合い、材料をもちよって、こんな寿司を握るにはどうすれば良いかと話しあったり、練習したり、研究して、明け方、鹿屋へ帰ってくる。今の年齢では厳しいですが、若い時だからこそできることはやりつくしたように思います。大会が近付いた頃に審査員を親方にお願いして、自主的に鹿児島で大会を開き鹿児島の代表を決めました。幸運にも選ばれた私は「第7回すし技術コンクール九州ブロック大会握りずし競技」で優勝することができました。全国大会では敢闘賞をいただきました。
日本一が地元 鹿屋市にある!
すげぇ!鹿屋に日本一がある!
父の友達にカンパチを育てている方がいて、エサをあげたり、出荷の手伝いをしたりと、よく手伝いに行っていました。その手伝いがてら大好きな魚釣りも楽むことができました。その何気なく手伝っていたカンパチ。その出荷量で鹿屋市が日本一だと知ったとき「すげぇ!鹿屋に日本一がある!」と感動しました。日本一なんて、なかなかないですよね。その日本一が自分の地元にある、それを何気なく使っていたとは・・・!それを知って使うのと、知らずに使うのとでは雲泥の差があります。自分が使っているこの日本一のものを、このすごさを地元の人はもちろん、日本中、世界中、みんなに知ってもらいたい!そんな気持ちはふくれあがる一方で、抑えられず、気づけばいろんなところに掛け合っていました。「こんなことして何になるんだ」と言われもしました。そのやり取りの中で、想いを伝える難しさに辛い想いをしたのも今となっては良い経験です。
良い経験だと思えるのは、2015年に誕生した かのやカンパチをPRするために誕生した「カンパチロウ」というゆるキャラ(?)やカンパチ踊りのおかげです。鹿屋市をあげてかのやカンパチを盛り上げるために取り組むという話しが出たときに、あぁ、やっとここまで来たか、日の目を見たな。やっとスタートラインに立てるまでになったかと涙がでました。
私がカンパチに興味をもった時はまだブランドとしても確立されていたわけではありません。ですから、これは盛り上げていかなきゃいけない!!という使命感に燃えました。日本一の鹿屋市のカンパチを盛り上げるために自分ができることは何かと考えました。やはり知ってもらうためには食べてもらわなければ始まらないのですが、当時の鹿屋のカンパチは「どこで食べられるの?」「どこで買えるの?」という状況でした。鹿屋市のカンパチは特に名もなく全国へ出荷され、地元で食べる機会がないという代物だったのです(榮樂寿司では父の友達から仕入れることができたので、お出しすることができていたのです)。日本一がココにあるのに、それを鹿屋で食べられない現状。こういったものは地元に熱烈ファンがいて、そのファンの想いがひろがっていく方が自然ではないかと考えているさなか誕生したのが「カンパチめし」です。もっと、かのやカンパチを知ってほしいと2007年11月の鹿屋市農業祭りでデビュー。高隈産のヒノヒカリと黒米をブレンドし、カンパチのだしで炊き上げた銀シャリの上にかのやカンパチの照焼きをのせ、仕上げに鹿屋名産白髪ねぎを添えた品です。一つ作ると、どんどんアイディアが浮かび、また、いろんな人との出会いがあり「一輪のばら寿司丼」、「ばら寿司」、「かんぱちバーガー」、「かのやカンパチ寿司ご膳」、「かのやカンパチ黒潮ご膳」そして「かんぱち箱寿司」といったかのやカンパチをメインに、地元の素材を使うことでのみ味わえる、今、ここでしか味わえないものが誕生していきました。
「鹿屋市に日本一がある!すげぇ!!こんなのを使って料理をすればいいんじゃないか!」
「かのやカンパチも一緒に盛り上げられないと、榮樂寿司も盛り上がらない。どちらか一方では意味がない。」
ちょっとしたキッカケから、カンパチと真剣に向き合ったことで、今の自分があります。やがてこれが「地産地消」につながり、自分の寿司のこだわりとして、これだけは何が何でも譲れないものとして息づいていくのです。
幻の「ナミクダヒゲエビ」
鹿屋市を盛り上げたい一心が、次々と宝物の発見へ導いてくれています。
人間、打ち込めば打ち込むほど情報に恵まれるもので、カンパチの次に衝撃的な出会いをはたしたのが「ナミクダヒゲエビ(赤海老)」です。これもカンパチ同様、普通にどこでも獲れる海老だと思っていたので、まさか「幻」という名がつくほどすごいものだとは思いませんでした。 その凄さに気づかせて下さったので当時、鹿児島大学水産学部の当時は助教授だった大富潤先生です。
ホームページに載せていたナミクダヒゲエビをご覧になった大富潤先生から「すごいですね!ナミクダヒゲエビが食べられるんですね。学生と調査しているので、学生にも食べさせてあげたい」とメールをいただきました。そのメールを見て「え・・・ただの海老じゃないの??」と。その後大富潤先生から、漁をしているのが鹿屋市と垂水市しかない。深海でしかとれないナミクダヒゲエビは貴重ですごいんですよ!と、ナミクダヒゲエビの凄さをたっぷり教えていただきました。
カンパチに引き続きここでしか食べられないものをまた一つ発見したのです。
ちなみにナミクダヒゲエビは普通の魚以上に仕入れが難しいです。古江漁港に毎日確実に水揚げされる保証もありません。ですから絶対にナミクダヒゲエビを食べたい方は予約必須です。
鹿屋市を盛り上げたい一心が、次々と宝物の発見へ導いてくれています。
やれなかった やらなかった どっちかな
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